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サッカーの頂点から福祉の頂点へ

◇ サッカーの頂点を見たいと桃大へ

中高6年間サッカーに打ち込みました。当時、母校の京都府立峰山高校サッカー部の友人は、ほとんどが高校まででサッカーをやめてしまうなか「大学サッカーで全国の頂点を見てみたい」と、監督がS級ライセンス(日本サッカー協会が公認する最高位の指導者資格)を持っている大学を探し、桃山学院大学へ進学しました。しかし、当時桃大のサッカー部はスポーツ推薦の選手が中心で、すんなりとは入部できませんでした。入部テストとして2か月間、ひたすら走り込む練習を課され、結局非スポーツ推薦の14、5人は全員不合格に。退学して別の大学を目指すことも考えましたが、1週間毎日サッカー部の監督室に行って「何とか入部させてください」と頼み続けました。

その後、出張から帰ってこられた総監督の高成廈先生にお会いでき、「雑用をするんやぞ」と選手兼マネジャーとして入部させてもらいました。結局、非スポーツ推薦で残ったのは3人だけでした。

お話を伺った、みねやま福祉会常務理事の櫛田さん。
写真は、2024年10月に東京で開催されたH.C.R.国際福祉機器展での発表の様子。

◇「あきらめない」を学ぶ

誰よりも早くグラウンドに来て練習メニューを確認、機材の用意やライン引きなどの準備をし、17時半から1軍、18時半から2軍の練習です。1軍どころか2軍の部員も実力は私より圧倒的に上で、プレーヤーとしての自信は失くしていきました。

そしてついに、3年次の夏には就活のことも考えて退部しようと思い、高校の監督にそのことを報告するため母校を訪れました。すると後輩たちに囲まれて「ぼくたちも大学でサッカーを続けたい」と言われ、退部のことは言い出せなくなりました。むしろ「後輩のため、たとえ試合に出られずとも大学サッカーを4年間やり切るのが自分の使命だ」と考え、サッカーに向き合う姿勢が変わりました。

「テクニックは無いかもしれない。でも、スピードとスタミナは誰にも負けない。」と吹っ切れました。

「スピードとスタミナ」に加えて、「諦めない気持ち」を武器に走り続けた。

マネジャーとして1軍の練習や合宿に帯同していたおかげで、監督の指示の理由や戦術の理解が高まっていったようで、チームに貢献する姿勢が評価されるようになりました。3年次春休みに行われた一軍の韓国遠征にも、マネジャーとして参加しました。最終日にKリーグの強豪チームとの練習試合で相手の俊足ウイングに全く歯が立たず、それに怒った監督が「一番足が速い奴は誰だ?」と叫び、ベンチの仲間が口を揃えて「櫛田です」と。いつでも試合に出られるよう密かにユニフォームを着用していたとは言え、突然サイドバックとして途中出場することに。それでも、何とか相手の俊足ウイングを抑え込むことが出来て、自信になりました。

4年次になるとリーグ戦にもレギュラーとして出場できるようになりました。リーグ優勝がかかる対関西学院大戦ではなぜかウイングでの起用となり、初得点も記録しました。桃大のサッカー部で「あきらめないこと」、「底辺から這い上がる努力」の大切さを学びました。桃大に来ていなかったら、今の私はないと思います。

4年次には、1軍として関西学生リーグで優勝。
前列は優秀選手賞受賞メンバーで、そのうち左から3番目が櫛田さん。
櫛田さんはベストマネージャー賞を受賞。後列左が高総監督。

◇ 総監督「自分の運命から目を背けるな」

卒業後はサッカーに関わる仕事をしたいと考えていました。実家に帰って福祉の仕事をするつもりは全くありませんでした。マネジャーとしての実績を評価され、スポーツ用品メーカーなどから誘ってもらえましたが、4年次夏のある日、総監督の高先生に呼び出され「就職についてどう考えているんや?」と聞かれました。高先生は「お前は福祉の仕事が向いていると思う」と言われ、その時に初めて「実は祖父が乳児院を立ち上げ、実家は福祉施設の敷地内にあります」と打ち明けたら、先生から「馬鹿者!自分の運命から目を背けるな」と一喝されました。

高先生は社会福祉士の資格取得を目指せる専門学校のことまで調べてくださり、「そこまで親身になってくれるのか」と感激し、福祉の道に進む決心をしました。専門学校に1年通って社会福祉士の資格を取り、福岡県の児童養護施設で修業し、2010年に京丹後市のみねやま福祉会に入職しました。現在父が理事長、私は常務理事です。

常務理事としての仕事と並行して、
みねやま福祉会の取り組みに関する講演の依頼にも対応している。

◇ 地域活性化のためには本業が大切

ほぼ10年ぶりに帰った故郷は衰退が進んでいました。何とか活性化し持続可能な地域にしたい、とイベントを開催するなど地域活動に力を入れました。地域の仲間も増え、「地域を良くしていくためには、社業を通じて社会貢献していくべきだ」と経営者の友人らと語り合いました。

少子高齢化、人口減少が進む中で、人と人が支えあう地域づくり、支えあう文化を創りあげなければなりません。分野の垣根を越えて人が集い、それぞれが役割を果たすことで支えあいが生まれるはずです。そこから「ごちゃまぜ福祉」の考え方に至りました。

みねやま福祉会は祖父が1950年、第2次世界大戦で親を失った子供たちなどを受け入れる「峰山乳児院」を設立したのが始まりです。父の代になり、法人名を「みねやま福祉会」に改称し、特別養護老人ホーム、障がい児(者)通園施設など高齢者福祉、障がい者福祉の分野も手掛けるようになりました。私は「ごちゃまぜ福祉」を実現できる施設として、特別養護老人ホーム、保育所、障がい者・児通所施設の複合施設「マ・ルート」をコンセプトづくりから担当し、2017年にオープンしました。

2018年には、全国社会福祉法人経営者協議会主催の社会福祉HEROs賞で、初代社会福祉HEROに。

◇ 日本の福祉をリードする

◎ 特養に入所していたおじいさんはリハビリすれば歩行ができるようになるのに、リハビリ嫌いでスタッフを困らせていた。ところがマ・ルートの保育所の小さなこどもに会いに行くため、自ら歩行器を使って歩くようになり、歩行機能が回復。特養を出て自宅に帰ることができた。

◎ 帰宅願望の強かったおばあさんは、保育所の赤ちゃんを抱いてミルクを与えることが生きがいになり、自宅に戻りたいと言わなくなった。

◎ ガラス、食器など何でも割ってしまっていた自閉症の男の子は保育所の幼児と仲良くなり、ものを割ることが無くなった。元々狂暴な性格だったのではなく、寂しさが原因だったため、幼児との交流で問題行動がおさまった。

◎ けん玉が大好きで2段の腕前をもつ知的障がいの男性は以前の職場で、けん玉を仕事中は持たないように指導され仕事が長続きしなかった。マ・ルートでは清掃業務を担当しているが、カフェスペースでけん玉パフォーマンスすることも仕事として取り組むようにしたところ、落ち着いて仕事を継続できるようになった。彼にとってけん玉は、社会とつながるツールだった。

一人ひとりの「困りごと」と、その背景を理解することが支援の出発点になる。

以上のように、お年寄りや障がい者と保育所の子どもたちの交流が「ごちゃまぜ福祉」の効果につながっています。ただ、単にごちゃまぜにすれば良いのではなく、障がい者やお年寄りの寂しさや困りごとの背景を理解し、ごちゃまぜの環境をどのようにコーディネートしていけば良いのかを明確にするスキルが重要で、それがスタッフの専門性です。

様々な事情のため家庭で暮らせない子どもを受け入れる児童養護施設を2018年に建て替え、子どもたちが落ち着けるプライベートな空間とスタッフの見守りを両立できる環境を建築家と議論して実現しました。

これらの取り組みと、職員一人一人が主体性と創造性を発揮できる職場環境が評価され、北海道から沖縄まで全国からスタッフが集まってきてくれます。現在、21事業所で500人余の職員が働いてくれていますが、「あらゆる垣根を越境し、新しい福祉を創造する」というビジョンを掲げ、志を持ったスタッフとともに日本の福祉をリードしていきたいと思っています。

大学時代と同じように「諦めない気持ち」で、これからも日本の福祉をリードしていきたい。

▼ 社会福祉法人 みねやま福祉会

▼ 第1回社会福祉ヒーロズ賞での櫛田さんのプレゼンテーション

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