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第1回 『長与専斎と内務省の衛生行政』

小島和貴(総合研究所長/法学部教授)

新型コロナウイルスで注目を集めた保健所。その元となる仕組みを明治時代に作ったのが、初代内務省衛生局長の長与(ながよ)専斎(せんさい)(1838-1902)です。これまで日本行政研究の一環として長与専斎の研究に取り組み、この度、『長与専斎と内務省の衛生行政』(慶應義塾大学出版会)を執筆した小島和貴教授に、本書について、また、長与の功績や現代に通じる教えを伺いました。

■日本の衛生行政の基礎を築いた長与

長与をひと言でいえば、日本で衛生行政を始めた人です。長崎の医家に生まれ、緒方洪庵が大坂で主宰した適塾で学び、福沢諭吉の跡を継いで塾頭になった俊才でした。明治4年(1871)に岩倉遣外使節団に随行し、岩倉具視らとともに西洋諸国を視察します。そこで政府には、住民の健康増進を図る役割があり、責任を持って感染症対策に取り組んでいることを知ります。当時の日本といえば、早寝早起きをする、暴飲暴食をしないなど、自分の健康を自分で管理する「養生(ようじょう)」に取り組んでいた時代でした。

帰国後、長与は西洋諸国をモデルにした、諸制度を整えるために尽力します。西洋でゲズンドハイツプフレーゲ、サニタリーなどと呼ばれた言葉を「衛生」と命名し、初代内務省衛生局長として、医学の知識に裏打ちされた衛生政策を住民に届けるための仕組みを作りました。現在は、厚生労働省があり、府県や政令指定都市では保健所を通じて、住民への衛生政策が進められていますが、こうした衛生行政の基礎を築いたのが長与なのです。明治時代にはコレラがはやり、現在の新型コロナ対策で注目されている専門家会議のように、医学的な知見を政策に反映させることにも取り組みました。

——新型コロナ対策では、外出や移動を制限するロックダウンが話題になりましたが、コレラの流行時、長与はどのような立場を取ったのでしょうか。

当時は、今のような人権が認められていたわけではないので、私権制限は関係がない、と思われるかもしれませんが、長与は今でいうロックダウンに強硬に反対しました。伝染病対策・感染症対策には、時に行政の強制力が必要であるとしましたが、あくまでも、住民の理解を重視する立場が重要だとします。住民に隔離の必要性を理解させることなく、公権力を使って無理矢理に自由を制限しようとすれば衛生行政の成功は遠のく、と言っています。その意味からすれば、今回のコロナ禍での自粛要請など国民に協力を求めるスタイルは、長与の試み以降、引き継がれてきたものです。現在においても重要な点だといえます。

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