「とにかく行動!」で切り開いたキャリア
商品やサービスの魅力、新しさ、存在価値などを伝える広告は、私たち消費者にとって重要な情報源になっています。広告代理店は消費社会を演出する花形業界の一つですが、どのような人々がどのような思いで働いているのでしょうか。
大手広告代理店、ADKマーケティング・ソリューションズで活躍している本学社会学部卒業生の谷村泰佑さんは、誰でも見たら知っている記憶に残る有名なテレビCMに携わるなど、ビジネス・プロデューサー(営業職)として社内外から高く評価されています。谷村さんに広告業界に飛び込んだきっかけや仕事の内容などをうかがいました。
◇ 自主企画の提案力が強み
ADKに入社して8年ぐらいですが、現在は某クレジットカード会社のメイン担当を務めており、日々クライアントと会話する中で見えた課題に対して企画を考えて積極的に自主提案することが私の仕事スタイルです。自主提案はすべて実る訳ではないですが、採用いただけた内の1つとして、クライアント1社提供の全国放送TV番組をつくる案件を受注しました。そこには某国民的タレントが出演して、キャッシュレスをテーマにクレジットカード1枚持って全国を旅するという企画です。
目的としてはこれまでのコミュニケーションでは動かなかった層が興味・関心を持ってもらうことでした。広告業界で、このような1社提供の地上波全国放送の番組をつくることは片手で数えられる程度しかなく、クライアントからも高く評価いただいた案件となります。
実現できたのは私一人の力ではなく、ADKの尊敬する先輩やスタッフやTV局、そして熱意のあるクライアントと一枚岩になって実現に向けて動けたことだと感じています。
その他、某オンラインゲーム会社の新作レースゲームが全世界ローンチ(昨年)に合わせた広告キャンペーンの重要な競合コンペがありました。
レースゲームは日本市場では既に人気ソフトとして任天堂のマリオカートが絶対王者として君臨する中、どうやって新作レースゲームが選ばれるのかが大きな課題でした。ADKとしてマリオカートとの差別化するべく、新作ゲームの優位性をしっかり見極め、日本市場成功に向けてローンチ戦略やクリエイティブ(映像)を考えてクライアントにプレゼンをしました。提案内容は高く評価され、ADKが勝ち大型広告キャンペーンを任されました。全国TVCMやタレント起用したPR発表会、東京・渋谷をジャックするかたちでスクランブル交差点を中心にアドトラックを6台走らせたり、大型ビジョンや壁面広告、渋谷109前での体験イベント、差別化ポイントを訴求及び若者が集まるファッションショーなどダイナミックな展開を図りました。結果、Appストアのランキング1位になり、目標とするダウンロード数を達成しました。映像表現も海外で評価され、海外2つ、国内1つの大型の広告アワードも受賞しました。
現在36歳で、もう若手ではなく中堅といわれる立場だと自覚しています。これらは勿論自分1人の力ではなく、一緒に動く営業メンバーや、ストラテジックプランナー、クリエイティブディレクター、メディアプランナーなど様々なメンバーと一緒に一致団結して成し遂げられたことです。そのような経緯と提案内容含めて社内で発表する場を設けてもらったこともあります。中堅社員としてADK全体を活気づけ、後輩社員のロールモデルとして引っ張っていけるように今後ももっと成長していくつもりです。
◇ 静岡の広告会社でキャリアをスタート
高校、大学時代に取り組んだ音楽、アート活動を通じて、仲間と一緒にものを創る楽しさ、人々が気づいていないことを伝える仕事のやりがいを感じ、そういうことのできる広告業界を志望しました。ご縁があり静岡県に本社がある広告会社・エイエイピーの採用試験を受け、入社しました。2年間静岡で勤務した後、出身地である関西支社で広告担当としての本格的な修行をしました。当時は関西国際空港(KIX)や登山用品のモンベル、イオンモールのお仕事を担当していました。
当時の関西国際空港は、騒音や飛行機が家の近くを飛ぶことなどに対して近隣住民からは不満を抱かれる対象でありました。まだ地元の人たちに受け入れられていなかったKIXを国内外から多くの方が訪れ、笑顔あふれる空港にしようと、ブランディングに力を入れていこうことで競合コンペが開催されました。大手広告代理店を抑えて採用されました。「スマイルエアポート」のコンセプトで2年間、ロゴマークやキャッチコピー、地元の老若男女による広報アイドル「スマイルポーターズ」の活動、PRマガジンの発行などに携わりました。
エイエイピーは社員500人ほど、静岡県内では最大手ですが、元々印刷会社だったこともあり紙媒体やイベントが仕事の中心でした。5年間の経験で自信もつき、テレビの仕事もやりたいと考え、ADKに転職。最初はテレビ関係の用語がわからず、「そんなことも知らないのか」と指導いただき日々勉強しながら、自主提案の企画書づくりを続け、自分の強みを活かし存在感を少しずつ出せていけました。
転職4年目に、最初に申しあげた1社提供番組の成功を機に自分自身への自信や、社内からも評価をいただけました。学生時代からのモットーである「とにかく行動すること」が実を結びました。
◇ 音楽、アートで行動した学生時代
奈良県出身です。高校時代はサッカー部員でした。夏のインターハイ県大会で敗退した時、帰りの自転車に乗ろうとしたらギターのピックが落ちていました。次のステージは音楽だ!と直感し、親に頼んでギターを買ってもらいました。秋の文化祭に出たら観客の反応が良くて、「音楽で頑張っていきたい」と胸が高鳴っていました。そんな中、第一志望として憧れていた桃山学院大学がシンガーソングライターである谷村新司さんの母校だったことも運命的なものを感じ、桃大入学後はギターの弾き語りに没頭しました。
天王寺駅(大阪)や王寺駅(奈良)でのストリートライブ、カフェや喫茶店、ライブハウスでの演奏、2回生の時には奈良から東京までギターを背負って自転車(ママチャリ)で弾き語りの旅をしました。オリジナル曲を30曲ほどつくりましたが、個性が弱いことを自覚していました。どうしたら個性が出るのか悩み、感性を豊かにするために創作活動をしようと考え、ふと影で絵を描く「影アート」を思いつきました。
白い大きな布を立て、段ボールを貼ったりゴミを積み上げたりして後ろから光を当てて影を作ります。クオリティの高いアートとは言えませんが、ホームページを作って発表したり、親が地域の商店街の人に話したことがきっかけでプロのタンゴ団体が主催するコンサートの背景制作依頼が来たりと、発表の場が広がり始めました。当時、タンゴの観客の中に奈良のイベント・燈花会の出展者を集めている方がおられ、子どもたちと影アートをつくるイベントを依頼されました。「行動したらいろいろなことに派生するんだ」と実感し、次々と行動につながっていきました。
香川、岡山の離島で行われる瀬戸内国際芸術祭も大きな転機になりました。アートを通じて世界中の人々が島を訪れ、島民との交流も楽しめる、島民の活力にもなっていたのと、島に訪れた当事者として私は今まで気づけなかった島の魅力を感じることができました。 このような気づきを世の中の人々に届けることで、多くの人の人生を豊かにできると思いました。気付きのキッカケになる仕事、仲間と一緒にモノを創る楽しさ、を実現できそうな仕事として、広告業界を志す大きな理由になりました。
妻は影アートを一緒にした仲間です。学生時代から「思いついたら行動しよう」と考えてきました。僕は自分がくるくる回る秒針だと思っています。秒針がどんどん動くことで、まわりの長針(仲間)や短針(感動や成果)も動き出します。後輩学生の皆さんには、とにかく動いてみることを勧めたいですね。