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第7回 『近代社会と個人<私人>を超えて』

10代の頃から、個人に強い関心を持っていたという社会学部の竹内真澄教授。内なる問いに端を発し、西洋社会思想史の約500年を読み解いた著書『近代社会と個人<私人>を超えて』(御茶の水書房)を2022年に出版しました。本書への思いを聞きました。

■西洋社会思想史を500年の流れで解明

-まず、竹内先生の著書『近代社会と個人<私人>を超えて』を出された目的をお聞かせください。

私が大学に入った1970年代前半、社会科学や人文科学では、「近代的個人になることが非常に大切だ」と言われていました。私は18歳くらいから、個人ということに強い関心を持っているのですが、当時の周りの学生たちは個人よりも社会や政治について考えていて、物足りなさを感じていたんです。時代の空気とは別に、色々な思想の本を読んでいくと、「近代的個人というのはもう古い。近代的個人を捨てて、次の新しい個人に進まないといけない」というようなことが書いてありました。近代的個人になるべきか、それとも捨てるべきか。ずっと疑問を持ってきました。そこで、自分自身の個人についての関心に決着をつけようと、ここ500年分くらいの西洋社会思想史をたどることにしたのです。近代的個人を樹立する動きと、近代的個人を乗り越える動きを約500年の流れで捉え、あれこれの人物がではなく、500年という構造が何を言おうとしているのかを本書で解明することにしました。

自分自身の個人についての関心に決着をつけるため、500年に及ぶ西洋社会思想史をたどることにしました

-本書は、「私人」と「個体」が大きなキーワードになっています。私人と個体と聞くと、同じような意味に思えたので、そもそも違うものだということに驚きました。それぞれの概念について、ご説明いただけますでしょうか。

私人と個体というのは、英語で言うとprivate personとindividualです。個体というのは私人に対峙した意味での個人のことですが、私人とはっきり区別させるために私は使っています。
私人というのは、「私の欲望にしたがって生きる人」という概念です。ギリシャ的な思想からすると、「本来人間は、公のために、あるいはお国のために働くべきもので、私の欲望のために生きるなどけしからん」と考えられていました。ところがホッブズ(イギリスの哲学者・政治思想家。1588~1679年)は、それまでの古代・中世の人たちの考え方を根こそぎひっくり返し「みんな私人として生きていこう」と言ったのです。この人なしに、現在の私たちの生活はないと言っても過言ではありません。職業や居住地を選べ、好きな人と暮らせるという意味で私人であることは進歩的です。自己決定の自由があるからです。ところが、19世紀の産業革命以降の資本主義では、賃労働者は自己決定を狭く制約されています。雇用されている人にとっては上司や社長がいて、やりたくない仕事でも生活のためにやらざるを得ないわけです。「我何人にも仕えず!」という思想を持つと、近代社会ではとても生きづらくなります。私人であっても、思い通りには生きられない。

これに対して個体をわかりやすく言うと、やりたいこととやっていることが合致している人間のことを意味します。例えば、「ギターを弾いて生きていきたい」という学生がいたとします。ところが路上ライブをしても人が集まらず、30代になってしまった。でも、「世間にどう思われようが、自分はギターで生きていく!」というのならば、彼は個体なのです。

-なるほど。身近な例で示していただくと、私人と個体の違いがイメージできます。

この約500年の西洋社会思想史の中で、やりたいことと、実際にやっていることが合致するのが1番理想的だ、ということをはっきり言ったのがカント(ドイツの哲学者。1724~1804年)です。自律した理性を持ち、やりたいことを仕事の中でも実現させることをよしとします。ここでいう自律は、自分の指図によって自分の行動を律する、という意味です。ところがカントは、奉公人や女性などは経済力がなく、主人に抱え込まれている人たち、内属といいますが、そのような人たちは仕事や生活の中でやりたいこととやっていることを統一できていない、と言います。残念ながら理想と現実は違う、というのです。では、万人がやりたいことと、やっていることを合致させるにはどうすればいいのか。この課題は、カント以降、現代に残されています。

西洋社会思想史は、「私たちは、どうあるべきか」という究極の問いに、各時代の巨匠たちが取り組んだ魂の記録でもあります。

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